中島みゆきさんの反戦歌「ひまわり”SUNWARD”」歌詞を考察・解釈

中島みゆき
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中島みゆきさんの楽曲「ひまわり”SUNWARD”」の歌詞について考えてみます。

「ひまわり”SUNWARD”」はどんな楽曲?

「ひまわり”SUNWARD”」は、中島みゆきさんが1994年に発表したアルバム「LOVE OR NOTHING」の4曲目に収録されている楽曲です。

壮大な雰囲気のバラード曲で、「銃声」という単語が登場することから、反戦をテーマにした歌だと考えられています。

「LOVE OR NOTHING」は、個人の恋愛や人生をテーマにした歌が多いのですが、その中で「ひまわり”SUNWARD”」は異色に感じます。

とはいえ、「LOVE OR NOTHING」の少し前に発表された「EAST ASIA」や「歌でしか言えない」には、社会的・哲学的な歌が入っていたので、この時期の中島みゆきさんの歌としては、違和感なく聴いた覚えがあります。

「ひまわり”SUNWARD”」が歌われた時代

「ひまわり”SUNWARD”」の歌詞全体はUta-Netでご覧ください

「ひまわり”SUNWARD”」が反戦歌であることは間違いないところですが、中島みゆきさんは、なぜ1994年にこの歌を発表したのか。

アルバム発売時に「ひまわり”SUNWARD”」を聴いた私は、この歌は、当時激しかったユーゴスラビア紛争を歌ったものだと迷いなく考えていました。

ユーゴスラビアとは今はもう存在しない国ですが、現在のセルビアやクロアチアなどが形成していた、他民族による連合国家でした。

第二次世界大戦後、社会主義国家として一つにまとまっていましたが、冷戦終結に伴って国をまとめていた社会主義理念が崩壊し、それぞれの民族が独立を目指して内紛を繰り広げたのがユーゴスラビア紛争です。

現在のクロアチアは観光名所として有名ですが、1994年頃は紛争が行われている危険地帯であり、観光に渡航する日本人はほとんどいなかったのではないでしょうか。

ユーゴスラビア紛争は宗教も絡まった民族紛争という側面が強く、当時中高生だった私は、「民族浄化」という言葉をユーゴスラビア紛争で初めて知りました。

民族紛争の虚しさ

「ひまわり”SUNWARD”」には、民族紛争の空虚さをよく表した歌詞があります。

私の中の父の血と 私の中の母の血と

どちらか選ばせるように 柵は伸びてゆく

当時のユーゴスラビア国内には、父親と母親、違う民族どうしが結婚して生まれた、いわゆるハーフの人もいました。

民族紛争において、「父の血」と「母の血」のどちらかを選べと言われても、選びようがないです。

自分の中の、父母どちらか由来のDNAだけを発現させて生きることなど不可能ですからね。

そもそも人類の歴史は長く、自分のルーツをさかのぼっても、必ずどこかで壁に突き当たります(どんな人でも文献が残っていない有史以前のルーツはさかのぼれない)。

自分の先祖は、どういった場所の、どういった外見を持った、どういった宗教を信じ、どういった文化を作った人々から形成されるのか。

そのすべては知りようがなく、自分の民族を特定することなど、自分でもできないのです。

たとえば私は南九州の出身で、母の故郷には古代に南九州にいたというクマソ民族の伝承もありますが、自分にクマソ民族の系統が入っているのかなんてことはわかりません。

民族という概念を大切にすることは何ひとつ問題はないでしょうが、自分がどの民族なのかなんてことは正確には誰も断定できないのであり、それにこだわり、それで線引きをすることは虚しいこと…「ひまわり”SUNWARD”」の歌詞は、そう呼びかけているように思います。

戦争の犠牲者は戦争を望んでいない者たち

「ひまわり”SUNWARD”」の冒頭の歌詞は、こう始まります。

あの遠くはりめぐらせた 妙な柵のそこかしこから

今日も銃声は鳴り響く 夜明け前から

目を覚まされた鳥たちが 燃え立つように舞い上がる

その音に驚かされて 赤ん坊が泣く

民族紛争における線引き=柵は、民族という不安定で不確定なものによって敵と味方を分けているため、実に妙なものになっている。

そんな状況で鳴り響く銃声に、民族という概念とは無縁の、鳥や赤ちゃんたちの生活がおびやかされる。

戦争の犠牲となるのは戦争を望んでいるわけではない者たち…というのは、いつの時代も同じなのでしょう。

「誰にでも降りそそぐ愛」はあるのか?

「ひまわり”SUNWARD”」の3番の歌詞はこうなっています。

あのひまわりに訊きにゆけ あのひまわりに訊きにゆけ

どこにでも降り注ぎうるものはないかと

だれにでも降り注ぐ愛はないかと

「あのひまわり」とは、サビで歌われている「花」のことでしょう。

たとえ どんな名前で呼ばれるときも

花は香り続けるだろう

たとえ どんな名前の人の庭でも

花は香り続けるだろう

ひまわりでも、他の花でも、花は何語で何と呼ばれようと、当然、香りは変わりません。

また、その花が咲いている庭の家の持ち主が、何人で、何語の名前を持っていようと、香りが変わることもありません。

こんなことは花や自然にとってみれば、ごく当たり前のこと。

町や海などの名前を、何語で呼ぶかなんてことで人間たちは争いますが、自然界にとっては心底どうでもいいことでしょうね。

そんな自然界の一部である「ひまわり」に、「どこにでも降り注ぎうるものはないか?」と尋ねたときに、答えは返ってくるのか。

…おそらく解答は、「太陽の光」なのではないかと思います。

この歌に”SUNWARD”というサブタイトルのようなものがついているのは、その意味なのではないかと。

sunwardとはあまり見慣れない英単語ですが、「太陽に向かって」という意味の副詞・形容詞です。

ひまわりは、太陽の方角に向かって咲く花として知られています。

ひまわりは「どこにでも降り注ぎうるもの」=日光を浴びて、そして、何と呼ばれようと、どんな名前のひとの庭であろうと、平等に香りを放つ。

人間もここから学ぶことはできないか?

「だれにでも降り注ぐ愛」を個人の人間が持つことで、その愛を浴びた人間がまた「だれにでも降り注ぐ愛」を誰かに与えるという循環。

私たち人間にとっては非常に難しいことですが、自然界ではこのような循環が当然のように成り立っている…そんな中島みゆきさんのメッセージなのかなあ。

長い人類の歴史の中で、まだ人間は戦争を根絶できずにいますが、世界から戦争をなくすための哲学が、少しずつでも醸成されていくといい…「ひまわり”SUNWARD”」は、そんなささやかな希望を感じる歌です。

まとめ

中島みゆきさんの「ひまわり”SUNWARD”」の歌詞について考えてみました。

「どんな名前で呼ばれるときも香り続ける花」…こんな生き方はなかなかできないですが、せめて心に留めておきたい思想です。

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